「どうしよう?」も「どうしたら?」も流されている
何か急に困ったことが起きたとき、「どうしよう?」よりは「どうしたら良い?」の方が主体的でマシだと私は思っていた。
でもよく考えたら、どうしたら良いだろうっていうことは、無意識のうちにどこかに正確があるはずだと思っていてそれを求めているのだと、最近気付いた。
「どうしよう」も「どうしたら良い」も他にすがっている点で同じレベルだったのだ。
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いつでも「私はこうしたい」
それではどうしたら良いかというと(笑)、「私はこうしたい」という気持ちをはっきりさせる、見つける、探るということ、常に自分のしたい方向へ行くということが大事だということなのだ。
個別の事案については、その専門家の意見を重視したくもなるが、それが自分にも、いま当てはまるかどうかは、判断するのは常に自分しかいない。
だから常に「私はこうしたいのだ!!」という気持ちを見失ってはならないのだ。
ミナミAアシュタール本を読み返していたら、なんか急に、そんなことに改めて気付いたのでした。